認知症の人と家族の会島根県支部2019年1月25日発行の会報より➀

槻谷和夫さんが語る「島根家族の会」が発足した時代の思い出

 

この時、なぜ「家族の会」発足する必要があったのか その経緯と経過

 

島根県支部の発足は19815月と記憶しています。当時、県社会福祉事業団の県立特別養護老人ホームに生活指導員として勤務する7人が月に1回程度、自主的に休日を利用して入所者の暮らしの改善の方途や国の制度の在り方について意見交換をしていました。皆20代後半でした。

その中の一人であった成相教専さん(大田の眺峰園勤務)が在宅で認知症老人(当時は痴呆性老人、呆け老人)をお世話している家族からの悩みを聞き、何とかならないだろうかと問題提起しました。当時は重度の認知症の人のケアを特養ではほぼしておらず、精神病院か在宅で家族が大変な困難を抱えながら介護されていました。社会の偏見も当たり前にありました。

 

この提起を受け全国紙で紹介されていた、京都で発足した「呆け老人をかかえる家族の会」(現在の「認知症の人と家族の会」)があることが話題となり、成相さんがすぐに京都に出向き話を伺い島根でも作ろうとなりました。

又、医学の専門的な助言が必要と皆で考え、当時県立中央病院に勤務して居られた現顧問の釜瀬春隆さんにお願いし役員の一人として快諾してもらいました。後には出雲市の寿生病院の故藤原院長にも入っていただきました。

発足式の1981年5月(松江市)には、当時本部の副会長であった故三宅貴夫さんを迎えました。20人程度の集まりでしたが、ほとんどが特養に勤務する若き労働者達でした。成相さんの尽力で毎月会報が発行され会員も増える中、本来の趣旨である介護家族の参加も少しずつですがあるようになりました。

 

しばらくして「呆け老人問題を考える島根大会」を出雲市民会館大ホールで約600人の参加の下開催しました。講師には故早川一光さんを迎えました。その会で介護家族の立場から後に会長を長年務められ現在の基礎を作られた故三原玲子さんが発表されましたが、当時は家族に認知症の親がいることを隠す時代ですから極めて勇気のある行動であったと思います。

これらを通じて社会問題としての認知症を考える大きなきっかけとなり、県民やマスコミの話題となりました。しかし、皆家族での介護であったり、仕事を持ちながらの活動は段々困難となり、役員会をしても2~3人程度の参加となり、一度は解散の決定をしました。

この時に三原玲子さんが決してこの会をなくしてはならないと自ら会長となり、心血を注いで会の再建と会員拡大、社会への訴えをされました。いわば、島根県支部の土台を作られました。その後の経過については現在の役員さんが詳しくご存じですので譲りたいと思います。

 

長くなりましたので、続きはまた後日…読んでいただきありがとうございます。